35-5.『結局人間の我が儘なんだから』って なんなのさ............
《前回を御覧でない方はこちらから............》
「いやぁ、あれは良い。あれは実に良いよ民さん。いやぁ、今度の予約が明明後日なんだ。もう今からわくわくしちゃってさぁ・・・・・・」
松の木陰で一服しながら 蕩けそうな やに下がっただらしない顔でまくし立てている馬さんは、ついこの間虫歯でほっぺたを腫らしてべそをかいていたはずだが、キーパーに歯医者を紹介されて早退して以来 妙に上機嫌だ............
「こうね、歯医者さんの先生が『痛かったら右手挙げてくださいねぇ』って言うだろ。ひゅぃぃぃぃ〜ん ひょぉぉぉぉぉぉ〜って削っていてさ、こう 手を挙げちゃいたいような我慢できちゃいそうな微妙なところで この手が こうな、こう、こう、胸のあたりで行ったり来たりするとその年増の歯医者さんの先生が『もう少しだから頑張らないと駄目よぉ、うふふぅ〜』ってさぁ。その甘い声を聞くと 俺もう何でも頑張れちゃうっ。ブレーカーでも 振動ドリルでも持って来やがれっ みたいなさぁっ。・・・・・・やぁ、年増は良いなぁ。良い。実に良いっ。なっ、民さんが年増好きなのが良く分かったよっ」
......って、そんなにでかい声を張り上げるなよこの馬鹿、
お客さんとキャディに筒抜けだろ――――――――
七月にも一回か二回はあったような気もするが、実際のところ五月の連休以来本当に久しぶりに俺達はグリーンの散水の段取りに出くわすようになっていた、
それも 先に業者さんが言っていたとおり、奴が言ったのは、
『一日無駄足で構わないから ホース担いで中ぁ ぐるぐる冷やかしといで・・・・・・』
と云う段取りだった。
それまでグリーンの手散水と云うと 四十ミリの太っといホースと、人でも殴り殺せそうなくらいに重くて大きな筒先での重労働であったれば、手散水の段取りにしかめっ面をしていた俺達に、奴は二十ミリの細いホースと それに併せて短く細い筒先を仕度して寄越した。
「奴ってば『より太くより長くより硬く』の男性の願望の亡者でなかったのか」
陰でそう言って笑った俺達だったが、いざ現場で使ってみれば この細いホースと軽い筒先は至便至極であった。
そうして俺達は 相当にがたが来ているとは云え “屑屋跨ぎ”を前にしては 最早非の打ち所が無いとしか云えない ボッコのカブの荷台に括り付けた箱の中にホースと筒先を入れて走り回った。
......とは云え もう九月だった。
確かに気を抜くと 乾きやすいところから色が変わってしまうのだが、つぼさえ押さえてしまえば そうめくじらを立てる程でもなければ、本当に一日の半分くらいを無駄にしてしまいそうだった。
「お前ら どうせキーパー公認でコースをほっつき歩いていられんだ。ついでにティの周りを掃除して ゴミ浚って ボール洗いの水を点検して、ついでにバンカー手均しして 特設の人工芝のティペグ抜いて、ついでにOB杭や看板やクロス棒や赤杭が曲がっていたら直したりとか・・・・・・まぁどうせついでだ、午後も最終の後を追っ払って頭の方だけでもカップ切っとけ・・・・・・他になんか ついでの事はなかったかな?」
すぐにそう言いだしたのは 鍾馗の親爺っさんだった。
親爺っさんがそう言うならしょうがねぇ.........
かくて 結構楽ちんな仕事の筈だった『一日無駄足でも構わない中の冷やかし』仕事は、ティからグリーンの全てに目を配らなければならない とんでもない重労働になってしまっていた。それだったら『今頃刈っておくと 冬までに もうちょっと伸びて適度な
カブの後ろの箱の中はホースだけでなく石頭や芥浚い用の肥料袋やら ホールカップの切り替え用のホールカッターやバケツの仕度で満載になり、それこそ俺達もボッコなカブも 悲鳴を上げながら中を走り回ることとなってしまっていた。
そうして、実はそれは奴の思う壺でもあったのだが、まぁ、それはまた後後のお話だった――――――――
「で、さぁ・・・・・・」
そう云えば馬さんの話だった。
「なんだよぉ、歯医者の年増の話はもう良いよ」
「そうじゃぁないよぉ。キーパーがさぁ、来月肥料屋さんのセミナーに行けって言うんだよぉ」
「あっ、良いなぁ」
「良くないよ。虐めだ虐め。あいつ俺を辞めさせようとしてるんじゃぁねぇのかな」
「って、そんなこともないだろうけどさぁ・・・・・・」
年増の女医さんではしゃいでいた馬さん、一転して酷い落ち込み様だった。
まぁ、無理もない話だった。こいつは 現場では随分と頼りになる相棒だったが 机仕事はからきし駄目だった。
件の薬剤の希釈や倍率の換算表の一件の時も こいつの使えないことと云ったら無かった。
悪い奴じゃぁない。むしろ現場の仕事は熱心でセンスの良い奴だ。
だが、こいつには.........
そう云えば 馬さんの勉強嫌いとその学力を御覧の皆さんにお伝えするについては 良い話があった。
まだ奴が中学生の時だった。
夜の校舎の窓硝子に八つ当たりしたり 無断借用した単車で走り回ったり......と云うことこそはしていなかったが、体育と技術以外の成績の散散だった 中三の馬さん。なんの弾みか 遊び友達と夜の学校に忍び込んで、あちこちにスプレーで悪戯書きをすると云う御乱行に及んだ事があった。
それこそあちこちに散散に落書きに及んだ翌朝 何食わぬ顔で登校してみれば、臨時の全校集会で生徒全員が体育館に集められていた。
馬さんが こそこそと体育館に入った時だった。
壇上の校長が、哀しげに話を始めた。
「みなさん。とても残念な事件が起きました。夕べ本校に侵入した何者かがあちこちにスプレーで落書きを残していきました。正門のところに“人口”・・・・・・きっと 入り口と書きたかったんでしょうねぇ。トイレには“手わらい”・・・・・・これは 手洗いなんでしょうけれども。女子のテニス部の部室のドアには“女子千ンヌ陪”・・・・・・なんで女子だけは間違えずに書けたんでしょうか・・・・・・」
茫然と立ち尽くす馬さんを尻目に、その朝の体育館は ほのぼのとした笑いに満ちていたのだそうな――――――――
そんな馬さんが、のこのこ東京くんだりまで出かけて行って 通訳さんが着いた 外人の講師の話を一日聞いていられると思うか?
確かに 奴にとっては拷問とか虐め。嫌がらせとか パワハラなのかもしれなかった。
「民さん、代わってよ。勉強は民さんがすればいいじゃん。現場は俺頑張るからさぁ〜」
「駄目だよ、奴が じゃぁそうしろ なんて言うわけ無いだろ。むしろ馬さんが嫌がれば嫌がる程 奴ぁ面白がって勉強勉強って言うに違ぇねぇな」
「まいったなぁ・・・・・・そうだ」
馬公 急に何を言うかと思ったら、
「民さんも虫歯になって 奴のところに行けば良いんだって」
......って、どこかでこんな風に落とされた様な――――――――
2009.9月号 35.虫歯を突けば君子の出ずるから 付録の五つ目 すみませんすみません 脱線ばっかりで先に進みません............ って そう云えば 本誌で、良い年増の歯医者さんが子供の口を覗き込んで『あらぁ、三本抜かなきゃ駄目なんだけど。今日三本抜いちゃう? それとも三回に分ける? 究極の選択よねうふふふふ・・・・・・』と云うのも 実話だったりしまして(笑 嘘じゃぁありません。だって その時、わたし そのお言葉を傍らに聞きながら 助手さんに口の中血塗れにされていましたから............ |