緑色の単車に乗っていた頃  ―― 配合カクハン ――

御殿場 プラクティスグリーン







今更、なんなんだが――――――――
はっきり云ってこの話は、綺麗な話ではない。
そう云う話が嫌いな方は、この先を読むのをおやめになった方がいいかもしれない。
何か美味しいモノをお召し上がりになりながら、と云う方も同様だ。
――――――――この話は、今こうやってコレを書いている僕でさえ、いまだに背筋がゾクゾクする話だからだ。
多分一番きついところは、この部分なので、もし興味がおありで、しかし汚い話はごめんだという方は今回はスルーした方が良いと思う。
もう一度だけ、書いておくが、この先は、本当に自己責任で読んで欲しい。
僕は、その時の衝撃をお伝えしたいから、記憶にある限りをありのままに書くつもりだ。








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――――――――とにかく
それは涙でぼやけた僕の視界の向こうにあった。
薄暗い、がらんとした倉庫の片隅で、両端が真っ黒になった蛍光灯の弱々しい明かりに照らされて、そこにあった。
背筋がゾクゾクするような匂いは、倉庫に入ったことでよりきつくなっていたが、それでも僕は少しは周りを見回す余裕を持ち始めていた。
薄暗く、やたらに広い倉庫の中には、見上げるほどに大きな、長いコンベアのついた古ぼけた機械が
――――――――それが焦土機であったことは後で聞かされた
まるで綿でも被ったかのように夥しい量のクモの巣に覆われて、錆朽ちようとしていた。
倉庫の中には大小のハエや羽虫がぅわんぅわんと飛び回り、払っても払っても僕たちの鼻や目の周りにしつこくまとわりついてきていた。
その金属音に似た羽音が倉庫の中に耳鳴りのように充満して、ひどく耳障りで不快なことこの上なかった。
目が慣れてくると、飛び回っているのはハエだけではなく、見たこともないようなハチの類や大きなガガンボのようなモノも見分けられるようになった。
灯り取りと換気を兼ねた小窓は開け放たれていたが、その窓の周囲から天井から蛍光灯から、倉庫の中は飛び回る虫を捕らえようとかけられたクモの巣で覆われ、古いモノは破れ垂れ下がり小窓から吹き込む風にゆっくりとなびいていた。
足下には、見るからに粘性の高そうな、ギトギトとした油の浮いた、黄色と茶色を混ぜた様などうしようもなくイヤったらしい色をした液体が、「それ」の下からしみ出し、蛇行して流れ出ており、そこには白いぶよぶよとした無数のハエの幼虫がたかっていた。
床の端の影の方では、正体も知れない甲虫がかそかそとはい回っており、気づけばそれもまた十匹や二十匹と云った常識的な数ではなかった。


我にかえった僕は、遅ればせながらツナギのポケットに突っ込んでいたタオルで、Kさんのように口元を覆い、頭にも巻き付けると、合羽のフードを被った。
そうしたからと云って匂いが弱まるわけでも、ちかちかする目が楽になるわけでも、ポロポロこぼれる涙が止まるわけでも、すすってもすすっても垂れてくる鼻水が止まるわけでもなかった。
ただ、僕は、この空気
――――――――倉庫の中の俺は、僕たちが普段呼吸している空気とはまったく異なる、そう、まったく別物の気体だった。
から少しでも自分の皮膚をを守りたかった。少しでも露出した部分を減らさねば、とんでもないことになりそうな気がした。
灯り取りの小窓から吹き込む風は倉庫の中の澱みきった、もはや璋気とでも呼びたくなるような、何かしらの色合いを帯びたような熱の籠もった気体
――――――――そこに沈殿していたのは、窒素何%に酸素何%。それに悪臭の元何十%と云うような組成の、少なからぬ量の毒素を含んだ気体だと言った方が正鵠を得ていよう
と混じって、それでも立ちこめた凄まじいばかりの悪臭を幾ばくかは中和して開け放たれたシャッターから外へと拡散していった。
ハエや羽虫、ハチの胸が悪くなるほどの羽音の向こうから、またキャディが何かわめいているのが聞こえてきた。
「sibakuro、突っ立ってねぇで、手伝え。片付けッちまわねぇと、終わンねぇぞ」
とりあえず、僕も支度をしたものと思ったのかKさんが僕に声をかけてきた。
Kさんは、倉庫の片隅にある「それ」に向かって歩いていった。
「それ」は、倉庫の隅でさわるのも嫌なくらい汚らしいブルーシートを幾重にもかけられ、上から何本かの角材が重し代わりに乗せられていた。


――――――――Kさんは、何の躊躇いもなくその角材を取りのけるとブルーシートを剥がし始めた。
「それ」にたかっていた無数の自乗に値するハエや羽虫がわんわんと飛び交い始めて、僕の目にKさんの姿がかすむほどだった。
僕が、立ちすくんでいるのをKさんは、ちらっと見ると、無言のまま黙々と作業を続けた。
どうやら、この状況に恐れをなした僕が役に立たないと早々に諦めたらしく、何も言わず、僕の方を見ようともしなかった。
僕は、イヤイヤ、本当にイヤイヤそれを手伝った。
足下は、例の粘りけのあるような液体でペトペトとしており、ブルーシートからは、ハエの幼虫が身をよじらせながら――――――――
―――――――― 一度だけはっきり書かせて欲しい。真っ白なころころと肥丸んだそれは、ウジだ。僕はかつてあれ程までに大量のウジを見たことがない
茶色のサナギと一緒にポロポロと床に転がり落ちた。
何枚かを重ねたかけて覆ってあるシートを、一枚また一枚と剥ぐ度に、僕の全身はゾクゾクした寒気に包まれていった。
総身には既に脂汗が浮き、窮屈なことこの上ない小さすぎるツナギに染みこんでいった。
ヤバイヤバイヤバイ・・・・・・
シートを剥がす度に強くなるそれは、もはや臭気ではなく、危険な、有毒で有害な刺激物だった。
涙があふれ、鼻水が止まらず、胸の奥からこみあげるモノを幾度も飲み込んだ。
イヤダイヤダイヤダ・・・・・・
僕の全身が、それ以上シートを剥がすのを拒否していた。
毛穴の一つ一つが、産毛の一本一本が、吹き出す脂汗の一粒一粒が、その行為を拒否していた。
――――――――何で俺、こんなコトやっているんだろう
漠然とした悲しみにとらわれた僕の意志に関わりなく、Kさんは最後の一枚をはぎ取った。
丁度その時だった。
「ああぁあ、この匂いじゃぁだめだよ。完全に腐っちゃってるじゃん」
倉庫の入り口に立った二人の影は、凄まじい悪臭にゆがんだ視界の中で逆光のシルエットとなり、振り向いた僕の目に何故か神々しく映った。


そのシルエットの一人が何の躊躇いもなく肥料倉庫の中に足を踏み入れてきた。
その人は、僕も顔を知っている出入りの肥料屋の親父だった。
「オウ、貧乏くじ引かされたか」
肥料屋の親父は立ちつくした僕の方をバンバンと叩くと、おもむろに「それ」の中に手を突っ込んで手にしたモノを指でこなしたり匂いを嗅いだりし始めた。
――――――――信じられるか、肥料屋の親父は「アレ」の中に素手を突っ込んだんだ
「それ」は倉庫の壁際に人よりも高く積みあげられた熱の籠もった汚物の山で、先程から何度も繰り返しているがが、かつて僕が経験したことのない悪臭を、目に染みて鼻の奥が痛くなるような悪臭を、耳鳴りと目眩を催すような悪臭を放っていた。
色は、ありとあらゆる絵の具を半端に混ぜたように汚いムラになった色で、乾いてボロボロになった部分と、まだ湿り気を帯びてグチャグチャになっている部分とがまだらに見られて、そうして、気が遠くなるほどの数のハエや羽虫とその幼虫がその表面をワジャワジャとはい回っていた。
そこに、肥料屋の親父は何の躊躇いもなく手を突っ込んで、「それ」を手にして匂いを嗅いだんだ。
それも、一箇所だけでなく、二箇所も三箇所もだ。
僕は、その瞬間、その肥料屋の親父を「凄い人」だと思った。
だって、キーパーはまだ戸口に立ったままで入ってこようとしないんだぜ。
それをこの人は、いささかの躊躇いもなく、素手で「アレ」を手にしているんだ。


「いっつもコレだよぉ。人がせっかく良い材料持ってきてやったって、切り返し怠けて腐らせちまうんだ。」
肥料屋の親父が、ボヤキながら手にしたモノを「それ」の山に投げつけると、そのあたりから凄まじい数のハエが、あたかも黒い煙のように、ぅわぁっ、っと舞い上がった。